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プロテスタント、カトリック、キリスト教の罪悪 [ポジティブ]

 





最近はブログの更新を頻繁にしている。
僕には珍しいことである。

ブログを書くのも趣味のひとつ、
後は気晴らしやストレス解消とも言える、
書かないと心が落ち着かない日もある。


writing-1149962_640.jpg


相変わらずパチスロでは負け続けである。
生活破綻者を絵に描いているような生活でもある。

少しでもプラスの時に現金に換える事が出来れば、
勝てる勝負も家に帰る頃には、
全て溶かしてしまう羽目になっている。



今回は趣旨を変えてキリスト教の、
について書いてみようと思う。



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昨年の10月21日にモルモン教、
いわゆる「末日聖徒イエスキリスト教会」の、
洗礼(パブテスマ)を受けている。

何故?この教会かと言うと、

今までに色々な宗教家を見てきたが、
「エホバの証人」や町の諸教会。

キリスト教とは関係ないが、
「幸福の科学」「創価学会」「顕正会」
など廻ってみたが、
他の宗教家、牧師、神父、宣教師などよりは、


何となく誠意が感じられたと言うだけである。


アメリカやカナダ、オーストラリアなどから、
故郷を離れた宣教師が、
2年間の日本での宣教活動の真剣さにも、
感化された感じでもある。


もともとキリスト教の教え単純にはいかない、
イエス・キリストの名前の下に集まる。
各宗派は、「烏合の衆」的存在とも言えるので、

洗礼(パプテスマ)は、
どちらでも良いような気がしただけである。


キリスト教は、
「イエス・キリスト」と言う名のもとに、

争いの種を持つほど殆どの教会同士の教えが違う。

キリスト教内でライバル同士のようなもので、
隣近所の教会同士が、
簡単に教えを譲歩できるものでもない。


世界の宗教争いは、
ユダヤ教Vsイスラム教Vsキリスト教と言う構図であるが、
それは簡単な色分け区分でもある、
根はもっと深いところにある。


キリスト教は、
カトリック、プロテスタントと分かれる。
簡単に色分けを見る方法は、
大概においてカトリックは、

神殿などは豪華絢爛とも言える。

ヨーロッパ辺りのキリスト教会の、
神殿など見ても分かると思う。

逆にプロテスタントは質素が基本である。
あくまで基本は質素となっているが?


その事はひとえに聖書に書いてある、
偶像崇拝排除によるものである。

偶像崇拝とは、
仏像や石ころで
出来ている神殿などを、
拝む対象としないからである。
あくまでも神殿や仏像は単なる石や木である。


プロテスタント側から見れば、
十字架などを掲げるのも全てが偶像崇拝と看做すものである。

しかし、
一部のプロテスタントには、屋根の上に十字架を掲げる者や、
単に十字架や十字架にになっているイエスキリストを、
神殿の真ん中に掲げる教会もある。

教会自体が厳かで威厳を保つように、
粧飾されている気配も漂い、決して質素な造りでもない。



深く言えば偶像崇拝そのものと言える。



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プロテスタントからしてみればカトリックは、
ローマ教皇を悪魔の化身として攻撃の対象となる。


カトリックと言えば祈りの時のロザリオと、
アヴェマリア信仰も有名である。


有名な聖母マリアも聖書の中で触れているのは、
ホンの僅かであるのに、
「不思議」と聖母マリア信仰は世界中で見られる。


その事には諸々の説はあるが、
現在、聖書の中の福音書は4つである。
マタイ。マルコ。ルカ。ヨハネの4つである。
しかし外典には、トーマス、ペテロ、
恋人と言われる?
マリア
数えたら100以上の福音書があると言われているが、
それらの福音書は「聖書編集」の時に外されている。


言われている「外典」である。


推測ではないが、
聖母マリアの福音書も編集前に数々有ったと考えられる。
聖書編集の時に、
聖母マリアの福音書は破棄された可能性もある。


それは何故か?
ひとつの手掛かりは恋人と言われる、
マリア、トーマスの外典の内容である。
現在の聖典の内容は階級層である。
必ず長である牧師や神父が存在する。

つまり同じ人間であるが、そこには平等と言うのがなく、
教会内の長が居てその下に信者が存在する。


長が信者を誘導する形の聖書編集内容である。


権力者の都合の良い聖書内容とも言える。


その他の外典は人々が輪になって、
自由に語り合える構造になっているので。
権力者が嫌いな構図とも言える。

それが聖典から外された理由と言える。

聖書は神の言葉と言えるが、
悪魔が書き加えた箇所もある事を、

聖書を読む意味で胸に刻む必要がある。
全て神の言葉との思い込みが、
悲惨な争いの下になっている。
よくよく注意しながら聖書を読まなければならない。


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聖書の最後の章に、
黙示録のハルマゲドンの戦いがある。
各宗派からからキリスト教の長が現れて、
「我こそ神である!」「我らこそが真なる教え!」と、
虚偽の申告する者が現れてくると言われる。

その事のきっかけで第三次戦争。
神と悪魔の戦い。


ハルマゲドンの戦い。


私はカトリックの肩を持つつもりはないが、
プロテスタントの教えが、
諸教会によっての違いが争いのもとにもなりえる事を、
杞憂する。

カトリックの場合はローマ教皇を頂点に、
縦横に繋がりがあり、
争いのもとにはなりえないが、
プロテスタントは先ほども書いたが、
殆ど個人事業みたいなので縦横の繋がりはない。


教えも殆どバラバラで、
最近までは悪徳金貸しや不動産やヤクザ等で、
生活していた人間などが少し聖書を勉強して、
如何にも聖職者、牧師らしく振舞い教会の設立に励む。

プロテスタントはカトリックより、
教会の建立が簡単であるし税金対策にもなりえる。

逆にカトリックはそんなに簡単にはいかない。

プロテスタントの教えにも問題もある。

先ほども書いたが十字架のあり方については、
絶対譲歩出来ないと言う諸々の教会もあり、
争いのは尽きない。


三位一体の考え方にも問題がある。

聖書には「三位一体」と言う教えもない。

イエス・キリストは、
父なる神の聖霊によりマリアからの生誕となっていてる。

あくまでも神の「子」と言う立場である。
一部のキリスト教会はこの教え。
真実なる聖書の記述が気に要らない。

神と神の子では立場上、格」が違うらしい。
其処に階層級が目につく。

何とか!
イエス・キリスト神の子でなく、
何とか!無理にでも!

神として祀り崇めたい。


そこで苦肉の策が聖書には書いていないが、
「神」も「イエス・キリスト」も「聖霊」
も、

一緒にしたいと言う考えが生まれた。


それが三位一体である。


糞も味噌も同じ?不謹慎です。反省。

と言うわけでプロテスタント教会では、
イエス・キリストも神となった。

簡単に考えればイエス・キリストは、
「神の化身」としたいが化身では名前に難がある。

「三位一体」の方が聞き心地が良いと言うことである。


パチパチおめでとうございます。

目出度くイエス・キリストも神に昇格です。


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待て!待て!と、、、可怪しいではないか!?

と、、
それらに反対するキリスト教の一派も、
多いので話が「ややっこしくなる」

逆に正統派?からはオカルトと言われる一派でもある。

その中にエホバの証人・モルモン教なども存在する。

彼らにしては聖書に書いていない事には断固反対の立場。

イエス・
キリストは神の子であり、
人と神の間を受け持つ仲介としての存在。


そして人々が神に祈る時も、
「イエス・キリストの御名においてアーメン」と祈る。
つまり、
神と人との繋がりをイエス・キリストに、
身を委ねると言う事である。


この事からキリスト教の争いは、

益々激しくなるとも言える。

キリスト教信者の罪悪は悪魔狩りに続く事にもなる。
今度は時間が許せば、
キリスト教の暗黒時代16世紀の事を書いてみたい。


私も洗礼を受けたので、
「運」が良くなると思えたが、
益々運勢が下がりギャンブルでは負け続けである。


あ~~~~めん、そ~~~めん、
僕何とかと流行っていた言葉も古いかぁ~~








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